赤い靴の少女
あれだけ函館の観光について書いておいて、赤い靴の少女像に触れなかったことに気づきました。
今日は自戒の念を込めて赤い靴の少女像について書きたいと思います。
赤い靴の少女像(函館)
今から6年前の夏、函館に行った時に撮った写真です。
場所は八幡坂の終点、ショッピングモール「函館西波止場」の近くです。
赤い靴の少女像は横浜市山下公園をはじめ、全国に7カ所あります。
函館はその中の一つです。
童謡「赤い靴」は、子どもの頃、だれもが歌ったことのある曲だと思います。
♪赤い靴 - Akai Kutsu|♪赤いくつ はいてた 女の子【日本の歌・唱歌】
赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたびに 考える
異人さんに 逢(あ)うたびに 考える
しかし、赤い靴のモデルとなった”きみちゃん”は、実は異人さんに連れられて行っていなかったのです。
童謡赤い靴は、実話をもとにして作られたのですが、その実話には諸説あって混沌としています。
今回は、その中で最大公約数の部分をさらっとご紹介します。
・赤い靴の少女は「佐野きみ」といい、その母親は「岩崎かよ」という。
・きみは私生児なので、戸籍上苗字は義祖父の名前となっている。
・かよは故郷の静岡できみを産んだ(明治35年)が、私生児を産んだことで暮らしにくくなり、北海道へ移民として渡たる(明治35年)。
・そこで鈴木志郎と知り合い、結婚。留寿都村で開拓に携わるが、過酷な生活によりきみをアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託した。
・やがてヒュエット夫妻はアメリカに帰ることになり、結核に冒されたきみは渡米できず、麻布十番の孤児院「永坂孤女院」に預けられた。
・きみは母親に会うこともなく9歳で他界し、青山墓地に埋葬された。
・かよは、娘のきみはヒュエット夫妻と共にアメリカに渡ったと思いこみ、孤児院で他界したことを知らずに「きみちゃん、ごめんね」と言い残して64歳で他界した。
(諸説あります)
今考えると
『かよは、きみという子どもがいながら、きみを宣教師に預け、好きな男と留寿都村に行き、開拓に従事するが、やがて挫折。ふたたびきみを探し始めるが見つからず、「きみちゃん、ごめんね」といって死んでいく』
という、まったく身勝手な母親だと思われるが、大自然の厳しさと当時の貧困と貧弱な医療体制という社会的な背景を考えると、かよへの批判は聞いたことはありません。
後になって北鳴新聞社の野口雨情がこの話を聞いて「赤い靴」を作詞しました。
ん~・・・なんというんでしょうか。
私の思うには
温暖な気候で住みやすい静岡から、子どもを連れて、いきなり北海道はないだろう。
せめて沼津市あたりで漁業の手伝いをして暮らしていれば、このようなことは起きなかったと思います。
このような悲劇が社会問題化して、やがて児童福祉制度が整っていったのだと感じました。
現代のように、相談事業、低所得者住宅、職業斡旋、児童手当など、児童福祉制度が整っていれば、また違った人生が送れたのかと思います。
それだけ児童福祉というのは大切なんだなと感じました。
赤い靴の少女像は金森赤レンガ倉庫の近くにあります。
そこでは若者たちが歩きながらクレープを食べたり、イェーイなどと歓声を上げながら記念写真を撮っています。
時代が違うとはいえ、青春を謳歌する現代の若者たちと、赤い靴のきみちゃんの悲劇のコントラストが強すぎて言葉になりません。
読者の皆さん、もし函館に寄ることがありましたら、是非赤い靴のきみちゃんに会ってあげてください。
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