ためらわない,迷わない

仕事を辞めた。そして自由人になった・・・。

プッシュ型から分散支援型へ

正月早々、能登半島周辺で大規模な地震が発生した。
元日の午後4時過ぎといったら、正月の挨拶を済ませ、初詣に行き、久しぶりに集まった家族のために夕食の準備をしていた頃だろう。
よりによってこんな時に・・・。


振り返ってみれば大正12年に関東大震災が発生し、平成7年には阪神淡路大震災が、平成23年には東関東大震災が発生して国民は甚大な被害を受けた。
そして今回の能登半島地震だ。


今から13年前、東関東大震災が発生した時、私は地元の避難所の管理運営を任された。


避難施設の条件を
〇畳の部屋が複数あること。
〇水洗トイレがあること。
〇風呂があること。
〇調理室があること。
として選定し、数人の職員が配置された。


私たちは部屋を掃除し、ボイラーの点検をして避難者を待った。
「はたして東北地方から遥々千葉県まで避難者は来るだろうか」と思っていたら
岩手県陸前高田市からの避難者が訪れた。


理由を尋ねると
「娘夫婦がここに住んでいるから」
「昔、ここに住んでいたことがあるから」
「以前、ここで働いていたことがあるから」
など、何かしら当市に関与したことのある方々だった。


中には自らポータブル人工透析器を持参して
「ここには総合病院の専門施設があるから」
という方もいた。


部屋には布団を用意し、パーテーションを立て、何とか最低限度のプライバシーを確保した。
風呂は男湯と女湯に分けて時間を決めて入ってもらった。
食料や衣料品は、社会福祉協議会や地域のボランティア団体の協力により集まってきた。


しかし、困ったことが起きた。
せっかく寄付していただいた食料の中には、開封された品や賞味期限間近の品もあった。
また、衣料品の中には穴が開いた服や洗濯されていない不衛生な服もあった。


「ただでさえ憔悴し切った避難者に、こんな品を渡せるだろうか?」
と思い、物品の選別を始めた。


しかし、このことが誤解を生み、職員は避難者を虐待しているとの噂が広まった。
そして一部の市民が直接避難所に訪れるようになったが、避難者のプライバシーを守るため、玄関口で押し問答が繰り返されるという混乱も起きた。


それから1年経ち、多くの避難者が故郷へ帰っていった。
さらにもう1年が過ぎる頃に、最後の1家族を見送って避難所を閉鎖した。


故郷を離れる辛さは分かるが、自分の家族親類が行方不明になったり、仕事の関係上どうしても故郷を離れられない人以外は、出来るだけ全国各地の公営住宅にや公共施設に分散して支援を受けた方が良いと思う。
そうなれば相対的に現地の避難者は減るから支援も手厚くなるし、福祉避難所(障害者、障害児に特化した避難所)の設営もしやすくなる。


そのためには
① 都道府県は所管する市町村に平常時から避難所となり得る施設名、住所、連絡先、収容可能人数、機能(部屋数、トイレ、風呂、調理室など)等を調査し、データベース化し、国はインターネットを介して被災地でも受入れ可能な施設が把握できるようなシステムを構築する。
② 現地で被災者の相談に乗り、全国の避難所に振り分けるコーディネーターを養成する。
というのはどうだろうか。


日本人は地震列島の上に住んでいる。
考えてみれば、いつどこで大規模な地震が発生してもおかしくないなのだ。


今回の震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、全国規模の効率的な復興のあり方について考えさせられた。

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