ためらわない,迷わない

仕事を辞めた。そして自由人になった・・・。

相続ドタバタ物語② 病院の表と裏

今から数年前、もう遺言書のことはとっくに忘れかけていた頃のこと。
私は仕事を終え、駅のホームで帰りの電車を待っていた時、1本の電話が鳴った。


『〇〇病院の○○医師ですが、お母様の容態が良くありません。今夜が山だと思いますので病院まで来てください』
「分かりました!」


この場から直接電車で病院に行けば1時間で着く。自宅に帰って自動車で向かったら1時間40分だ。
私の頭の中でいろいろな選択肢が浮かんだが、医師の『今夜が山』という言葉により車で向かうことにした。


病院に着いて母親の病室の前に立つと、あるべき場所に母親のネームプレートが無かった。

「しまった。遅かった」
私が心の中でそう叫ぶと、背後から聞き慣れた義姉の声がした。
『迷い人さん、こっち』


義姉に案内されたその部屋に母親は横たわっていた。
髪にはきれいに櫛が入れられていて薄く化粧も施されていた。
表情はとても穏やかで、普段のしわくちゃ婆さんの様子は微塵もない。


「母は最期、苦しみましたか?」
『少しうなされていましたが、そうでもありませんでした。』
最期まで母を励まし続けてくれた義姉に感謝の言葉を伝えた。


家族全員が揃ったところに医師と看護師が入って来た。
『最善を尽くしたのですが、このようなことになってしまい・・・』
「いえいえ、母が大変お世話になりまして・・・」
よくあるテレビドラマに出てくるような会話がなされた。


やがて看護師がテキパキと母親の身辺を整えると、周囲に分からないようにベットを関係者専用エレベーターへと移動した。

病院に来ている患者は健康になりたいのだから、他人の遺体など縁起でもない。
私たち親族にとしても、母の大切な遺体を他人になんか見られたくない。
病院関係者も施設内で騒ぎを起こされたくない。
よって遺族・患者・病院関係者の三者の意向は見事に一致している。


やがてエレベーターは地下の階に着き、誰もいない長い廊下を移動しながら霊安室に向かった。


『家族葬でいいよな』
兄がひとこと呟いた。
「うん」
私も特に異議はなかったので、そう答えた。


やがて裏門から葬儀業者のマイクロバスが着いた。
車のサイドには業者名などは入ってなく、一般の人が見たら普通の車に見える。


やがて母は静かに病院を後にした。


病院には表の顔と裏の顔がある。

表の顔は通院患者、入院患者、見舞い人が正門から引切り無しに出入りしている。
一方、裏の顔は入院患者の食材やリネン(シーツ、枕カバー、タオル類)などの関係業者が出入りしている。
そして私たちのように親族の遺体が静かに病院を去っていくこともある。


そこには必然的ではあるのだが、互いに距離を置いた「明」と「暗」が共存していた。


深夜に霧雨が降り出してきた。
こういうのを『涙雨』というのか。


私は傘をささずに母が去っていった道をなぞるように歩いて駐車場に向かった。

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